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久坂玄瑞・武市半平太の策動により三条実美・姉小路公知など尊攘派公卿13人が連名で岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子(岩倉の実妹)の6人を朝廷を裏切り幕府のために和宮降嫁を断行した「四奸二嬪」と弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出した。和宮降嫁の発案者は井伊直弼の謀臣長野主膳ともいわれ、安政の大獄で佐幕化した岩倉具視は孝明天皇に「破約攘夷を幕府に迫るための方便」と説き実現に漕ぎ着けた。和宮降嫁の首謀者である岩倉具視は自ら万事を差配し、和宮入輿の道中に随い江戸城に入った。和宮降嫁に反対する尊攘派から「幕府に廃帝の陰謀あり」と吹込まれた孝明天皇は噂の真偽を糺す勅書を授け、岩倉具視は勅使として幕閣を詰問した。老中らは噂を否定したうえ陳謝したが、岩倉具視は将軍徳川家茂直筆の誓書を強要した。が、久坂玄瑞・武市半平太ら尊攘派の糾弾は激しく疑心暗鬼となった孝明天皇は岩倉具視に辞官・洛中追放を命じ、岩倉は洛北岩倉村に隠遁した。こののち岩倉具視は、薩摩藩の大久保利通と提携し政局に復帰するが、孝明天皇崩御に伴う大赦まで5年間も公職に就けなかった。生活が逼迫したため自宅を賭場として博徒に貸与したという。