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長州藩の長井雅楽は「航海遠略策」を著し、孝明天皇・朝廷を最上位に置きつつ実質的には幕府の開国政策を認め、朝幕双方の面子を保ち和解に持込もうという穏当な公武周旋案を唱えた。「現実の問題として、日本は武力的に条約破棄や鎖国は出来ない。開国に徹底することによって国富を増し、武力を強くし、世界に雄飛することを考えるべきである。されば、朝廷は幕府の開国条約を勅許さるべきであり、幕府はまた朝廷にたいして尊崇の実を示すべきである。かくて、公武合体の国論の統一が出来る」・・・長井の雄弁もあって公家、幕閣共に人気を得て長州公武合体派が一時政局をリードすることとなった。後の明治政府は長井案通りに動くのだが、当時の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら尊攘派長州藩士は幕府に主導権を留める行方に猛反対であった。長井雅楽暗殺の企ても起り、木戸孝允は強硬派の高杉晋作に外遊を勧め追払ったといわれる。長井雅楽の方は、天皇の御製も下賜され、江戸に下り老中安藤信正から公武周旋を依頼され、藩主毛利敬親の江戸参勤に際して幕府に公武周旋の建白書を提出した。ところが、坂下門外の変で公武合体を推進していた安藤が失脚すると藩内で尊攘派が優勢となり、航海遠略策は宙に浮いた。