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和宮降嫁の勅許の後、老中安藤信正が、国学者の塙次郎(保己一の子)に命じて廃帝の故事を調査させているという噂が持上がった。尊攘志士らは、幕府は孝明天皇を廃す考えであり、その人質として和宮降嫁を企んだものと考えた。久坂玄瑞ら長州藩の志士は激昂し、和宮の駕籠を奪って京都に帰し、安藤老中を殺害しようと主張した。これに対し、武市半平太は、勅命が出た以上それに背くのは大義に反するし成功の見込みもない、それよりも薩長土三藩の有志が帰国して藩論を尊攘にまとめ、藩主を奉じて京都に集まり、勅命を得て幕府に破約攘夷を迫ろうと提案した。長州藩の久坂玄瑞・周布政之助・木戸孝允、土佐藩の武市半平太・大石弥太郎、薩摩藩の樺山三円が江戸の長州藩邸で会合し武市案を了承、1862年3月に三藩が各藩主を奉じて京都で会すことを約束した。が、血気に逸る伊藤博文は親友の山尾庸三と共に江戸で塙次郎を暗殺した(1921年に渋沢栄一が公にしたとされる)。廃帝計画も塙次郎の関与も全くのデマであり、もし真実でも政治的に何の意味も無い暴挙であったが、伊藤博文は長州藩内で一目置かれる存在となり他藩の志士にも名を売った。