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13代将軍徳川家定に子供がなかったため、幕閣・諸侯を巻込んだ将軍継嗣問題が起った。家定との血縁の近さを理由に紀州藩主徳川家茂を推す南紀派と、12歳の家茂よりも英邁といわれた徳川慶喜をたてようとする一橋派が激しく対立した。南紀派は守旧派の譜代大名グループで譜代筆頭彦根藩主井伊直弼が主導し、会津藩主松平容保・佐賀藩主鍋島直正や大奥が強力に後押しした。一橋派は、慶喜の実父で前水戸藩主の徳川斉昭を筆頭に、松平春嶽・島津斉彬・伊達宗城・山内容堂の四賢候、尾張藩主松平慶勝らが与した。四賢候は雄藩連合による公武合体を目指すグループで、将軍継嗣問題をその実現のための手段と考え、活発に運動した。しかし、長野主膳の謀略によって井伊直弼が大老に就任し強権を発動して電撃的に徳川家茂の将軍就任を断行、徳川斉昭の女漁りを毛嫌いする大奥の協力で徳川家定の言質をとったのが決定打となった。徳川家定は精神障害者で男性機能がなく美男子の徳川慶喜に嫉妬し嫌っていたといい、家定に篤姫を入輿させた薩摩藩主島津斉彬の策謀は失敗に終わった。