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西洋文明への憧憬を抑えられない吉田松陰は、ペリー来航直後にロシア船による密航を企て、翌年ペリー再来航を聞きつけると長州藩足軽の金子重之助を伴い直ちに江戸へ向かった。吉田松陰と金子重之助は、伊豆下田郊外でアメリカ人士官を待伏せし漢文の手紙を手渡して密航を申込んだうえ、同夜小船を漕いで旗艦ポーハタン号に乗付けたが、ペリー提督は同情しつつも日本の国法を犯しては両国の和親を破ることになると考え密航を拒絶、壮挙と信じる松陰は自首し伊豆下田の牢に繋がれた(牢跡地の側に下田開国博物館が建つ)。「彼等は教育ある人達で、漢文を見事に書き、態度は礼儀正しく、立派であった」と記したアメリカ士官は吉田松陰に好意を寄せ、直接会わなかったペリーも大いに同情し幕府に寛大な処分を申入れた。国禁違反は死罪相当の重罪だが、長州藩への遠慮からか幕府は江戸伝馬町獄舎で取調べたのち自藩幽閉の軽い処分で済ませた。佐久間象山は、吉田松陰へ贈った壮挙を激励する書簡が見つかり松代藩幽閉を命じられた。この後、松蔭門下の高杉晋作や久坂玄瑞は度々松代の佐久間を訪ねて教えを請い藩校明倫館の教授に招聘するほど感化された。佐久間は8年後に赦され徳川慶喜の招きで上洛し公武合体論と開国論を説いたが、傲岸不遜な性格も災いし京都木屋町で「人斬り」河上彦斎らに暗殺された。さて、吉田松陰と金子重之助は囚人用の唐丸籠で萩へ護送されたが、結核性の痢病と牢屋瘡を患った金子は寒風のなか薄着を強いられ萩到着の3ヶ月半後に獄死、松陰は節約した食費を遺族へ贈って墓碑建立を依頼し佐久間象山・宮部鼎蔵・久坂玄瑞らに弔死詩を頼み追悼歌集を編纂した。生来前向きな吉田松陰はすぐに立直り野山獄で囚人相手に教育の才を発露、孟子・論語・日本外史を平易に講義し(出獄後に『講孟余話』を著作)勉強嫌いには俳諧や書道の稽古を督励、牢役人の福川犀之助まで弟子となり夜間の点灯を許すなど便宜を図ってくれた。富永有隣は親類縁者に持余され野山獄に入れられた拗者だが吉田松陰に敬服して弟子となり、後に吉田は藩庁に運動して富永を出獄させ松下村塾の助教にした。