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ペリー来航後、和親条約の是非を巡って幕閣と世論は攘夷派と開国派の真二つに割れた。攘夷派の急先鋒は水戸藩の徳川斉昭であり、雄藩連合による公武合体を目指す四賢候(薩摩藩主島津斉彬・福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂)らが斉昭を支持し、老中首座安倍正弘が譜代諸侯との調整に努めた。ただし、単純に外国人を打払えというような「小攘夷」ではなく、外圧による和親条約締結は拒否したうえで洋式軍備を整え、富国強兵を推進して国威を発揚し、西洋列強に立ち向かうべきとする「大攘夷」が四賢候ら開明派の主張であった。そうした政策を推進するため、慶喜将軍を擁立し、従来譜代大名が独占してきた幕閣に春嶽を送込み雄藩連合への道を開くことを当面の政治目標とした。一方、井伊直弼を筆頭とする譜代諸侯の多くは、従来どおりの譜代諸侯による幕政運営に固執し、政治的に対立する立場から開国政策を主張した。さらに、13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題が両派の対立に拍車をかけ、前者は斉昭の実子で優秀と目されていた徳川慶喜を推す一橋派を形成し、後者は血縁重視で徳川家茂を推す南紀派となって、激しく主導権を争った。