日本史年表へ戻る
「幕末の魔王」長野主膳は、稀世の美男子で学識豊富・上品高雅な威厳に満ち、権謀術数を駆使して井伊直弼の大老就任から安政の大獄を差配したといわれる。怪人らしく前半生は不肖、伊勢滝野村に現れ国学塾を開いた長野主膳は、村の名士滝野次郎左衛門の妹滝を娶り、紀州藩付家老の水野忠央に接近、滝野の援助で近畿・東海道を巡歴したのち近江坂田郡志賀谷村に「高尚館」を開き彦根・京都へも出張って多くの門人を得た。京都では二条家に庇護され多くの公家や諸大夫の島田左近らを弟子にし、彦根藩では不遇期の井伊直弼に取入り政治的な助言も行う間柄となった。彦根藩主に就いた井伊直弼は長野主膳を150石で藩校弘道館の国学教授に召抱え、晴れて腹心となった長野は、水野忠央と紀州藩主徳川家茂の将軍擁立を図り、京都で朝廷工作を担いつつ江戸の幕閣や大奥へも謀略の手を伸ばした。野心家の水野忠央は、大名格の紀州藩付家老の地位に満足せず立藩・幕政参与を望み、妹二人を幕臣の養女に落として将軍徳川家茂に献上し幕府官僚に賄賂攻勢を仕掛けたが、逆に顰蹙を買って老中安倍正弘からも敬遠されていたところで、将軍継嗣問題は渡りに船だった。さて、老中間部詮勝の黒幕として安政の大獄を主導した長野主膳は多くのスパイを操り、島田左近は公家社会上層部の情報網・目明し猿の文吉(妹の君香が島田の妾)は一般社会の密偵として暗躍した。京都政界を戦慄させた島田左近と文吉は高利貸しなどで巨利を貪り「今太閤」と称されたが、久坂玄瑞・武市半平太ら尊攘派が京都で台頭すると真先に「天誅」の標的となった。島田左近は京都木屋町で君香と逢瀬中に田中新兵衛らが斬殺、青竹に刺した首を先斗町川岸に晒され、文吉は岡田以蔵らが三条河原で細引で絞殺、裸体の肛門から頭頂まで竹で串刺し性器に釘を打った姿を晒された。そして長野主膳は、井伊直弼暗殺後もしぶとく彦根藩に留まり100石加増されたが、島田左近の斬殺で空気が一変、彦根藩士らは藩主井伊直憲に強訴して長野を禁固し牢内で縛り首(庶民刑)にした。2年後に成就した和宮降嫁(公武合体策)の発案者は長野主膳であったという。