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適塾は、蘭学者・医者として高名な緒方洪庵が大坂に開いた私塾で、1838年から1868年までの間に600人以上が学んだ。「血尿が出るほど」の猛勉強で知られ、大村益次郎・橋本左内・福澤諭吉・大鳥圭介・箕作秋坪(三叉学舎創立者)・佐野常民(日本赤十字社初代総裁)・本野盛亨(読売新聞社創業者)・手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)・久坂玄機(玄瑞の兄)など、幕末維新期をリードする偉材を多く輩出した。大阪大学医学部の前身とされる。大村益次郎と福澤諭吉は共に適塾で塾頭を務めた大秀才だが就学時から反りが合わず、過激な攘夷屋を嫌悪し逸早く英語教育に目を着け文明開化のカリスマとなった福澤諭吉と、長州藩・明治政府で軍政の指導者となった大村益次郎(尊攘運動には距離を置いた)、二人は出発点を同じくしながら対照的な出世コースを辿った。大鳥圭介は、適塾を出てジョン万次郎に英語を学び尼崎藩・徳島藩に出仕、幕府の蕃書調所に招聘され日本初の合金製活版を作った(大鳥活字)。ここまでの経歴は同じ村医(庶民)の出自で宇和島藩を経て蕃書調所・講武所教授へ進んだ大村益次郎と同様だが、幕府に留まった大鳥は陸軍幹部となり、江戸開城の日に伝習隊を率いて江戸を脱走、新撰組の土方歳三らと共に北関東から会津へ転戦し仙台で幕府軍艦を率いる榎本武揚に合流して五稜郭へ入り陸軍奉行として函館戦争を戦った。大鳥圭介の人格と才能を惜しむ大村益次郎と福澤諭吉は赦免工作に努め、特赦で出獄した大鳥は明治政府に出仕、軍務には就けなかったが開拓使・工部省の技術官僚を経て日清戦争直前に駐清国特命全権公使・朝鮮公使を努め枢密顧問官・男爵に叙された。津山藩出身の箕作秋坪は、緒方洪庵の適塾に学んで洋学の権威となり、明治維新後に東京で三叉学舎を開いた。三叉学舎は福澤諭吉の慶應義塾と並び称された洋学塾で、東郷平八郎・原敬・平沼騏一郎(津山藩出身)らを輩出した。