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18歳で長州藩主を継いだ毛利敬親は、慢性的な財政難を克服するため、優秀で開明的な村田清風に藩政改革を託した。村田清風は、「三七ヵ年賦皆済仕法」で大胆な債務減免策を断行する一方(薩摩藩・調所広郷の250年賦・無利子償還よりましだが事実上の借金踏倒し)、商人への自由貿易承認と運上銀課税、越荷方の設置による貿易運輸・決済業務への参入など藩収入を増やすための経済政策を実施した。村田清風の一連の改革により長州藩は潤沢な準備金を蓄えるまでになり「幕末雄藩」の基盤を構築、政治資金をばら撒いて朝廷を統制下に置き洋式軍備を導入して精強軍を整えた(木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら長州藩士は潤沢な交際費を遣い京都で豪遊した)。村田清風は教育普及にも尽力、後継者の周布政之助を都講に抜擢し藩校明倫館の拡充政策を担当させた。明倫館は、儒学・漢籍教育に留まらず、シーボルト仕込みの蘭学医青木周弼の進言で設立された医学館好生堂、オランダ語や洋式兵学を教える西洋学問所も備える当時最先端の総合学園へ発展、少年期の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞も就学した。山鹿流兵学師範の世襲家を継いだ吉田松陰は、8歳にして明倫館に出仕し20歳前に遊学へ出るまで兵学教授を勤め、木戸孝允・益田弾正(禁門の変で引責切腹した長州藩家老)・斎藤弥九郎(神道無念流の大剣客)らを薫陶、明倫館再興に関する意見書も上表した。