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島津重豪は、娘の茂姫を将軍徳川家斉に入輿させたのをはじめ、子や孫を有力大名の養子や夫人に送込んだ。将軍家の正室は皇室・五摂家が慣例で大名家から迎えた前例は無かったが、重豪は金銀をばら撒いて慣例を破り、水戸藩に頼んで『大日本史』に島津氏の先祖は源頼朝の庶子と記載させ、鎌倉に立派な頼朝の墓を建てて箔付けした。重豪の縁戚外交・豪奢・「蘭癖」は藩財政の破綻を招いたが、幕末最有力の閨閥は曾孫の島津斉彬・久光が中央政局へ乗出す基盤ともなった。重豪は、嫡子の島津斉宣に薩摩藩主を継がせたが財政緊縮を図ったため隠居させ、斉宣嫡子の斉興を藩主に据え死ぬまで実権を保持した。斉興嫡子の斉彬の利発さに期待し手元に置いて可愛がったという。さて、調所広郷の藩政改革で藩財政は回復したが、藩主として散々苦労した島津斉興は極端な守旧派となり、重豪の薫陶で西洋好き・政治好きとなった嫡子の斉彬(生母は正室の弥姫)を嫌い庶子の久光(生母は側室お由羅の方)の擁立を画策、薩摩藩は真二つに割れ両派の抗争は長年に及んだ。斉興は、斉彬が40歳を過ぎても家督相続を拒み「お由羅騒動」で斉彬派を壊滅させたが(西郷隆盛・大久保利通の父親も斉彬派の末端に連なる)、中央進出を志す斉彬は、大叔父(重豪の実子)の福岡藩主黒田長溥を通じて老中阿部正弘を抱込み、沖縄密貿易を密告する苦肉の策で斉興を追詰め(調所広郷が引責自害)将軍徳川家慶の名で隠退に追込んだ。ようやく薩摩藩主に就いた島津斉彬は、富国強兵・殖産興業を掲げて集成館事業などの近代化政策に取組み、西郷隆盛を抜擢して雄藩連合・公武合体運動に乗出したが、大老井伊直弼を打倒すべく率兵上洛を号令した直後に突然死した(毒殺説あり)。嗣子無く没した斉彬の遺言により島津忠義(久光の長子)が薩摩藩主を継ぎ、斉興の死に伴い「国父」島津久光が実権を掌握、斉彬の遺志を継いで幕末政局に乗出した。明治維新後は忠義の島津宗家と久光の玉里島津家が侯爵に叙され、一族は閨閥を壮大に拡げつつ今日に至る。昭和天皇の香淳皇后は忠義の孫、現当主の島津修久は近衛文麿の外孫で細川護煕とは従兄弟である。