日本史年表へ戻る
龍造寺隆信は、一族虐殺を生延びて曽祖父から家督を継ぎ大友宗麟の力添えで東肥前支配を確立、耳川合戦の漁夫の利をさらって肥前統一を果し大友領の筑前・筑後・肥後北部・東豊前を侵食するが、疑心暗鬼の国人統治で離反が相次ぎ沖田畷の戦いで島津家久に討取られた九州下剋上の第一人者である。馬場頼周の反乱で父と祖父を殺されたが曽祖父の龍造寺家兼に伴われて筑後柳川城主蒲池鑑盛に身を寄せ、家兼が復讐を果した直後に病死したため17歳で家督を相続した。周防の大内義隆に臣従して主家の少弐冬尚を追放し傀儡の本家から家督を奪ったが、1551年陶晴賢の謀反で後ろ盾の義隆を失い立花道雪の猛攻を受けて敗走、再び蒲池鑑盛に救われて2年後に肥前に帰還すると、1559年大友宗麟に帰服して旧主の少弐冬尚・千葉胤頼を攻め滅ぼし東肥前支配を確立した。1563年肥前の領袖有馬義貞・大村純忠兄弟を撃退し(丹坂峠の戦い)、1567年高橋鑑種・秋月種実の反乱に呼応して大友氏に反旗、筑前・筑後を鎮圧した立花道雪の討伐軍が来襲するも毛利軍の九州侵攻で難を逃れ、1570年宗麟率いる6万の大軍を夜襲で破り干渉を排除した(今山の戦い)。1578年宗麟が耳川の戦いで惨敗すると道雪が堅持した防衛ラインが決壊、龍造寺隆信は島原半島の大村純忠・有馬晴信を降して肥前を平定し、一気に筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏を広げ九州三強の一角に躍り出た。が、冷酷で猜疑心が強く「肥前の熊」と称された龍造寺隆信は酷薄な恐怖政治に陥り、蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の後嗣で娘婿)を族滅して柳川城を奪った暴挙を機に離反者が続出、武威を示すべく北上する島津氏に決戦を挑み有馬晴信の島原城へ攻込んだが、寡兵の島津家久に戦国史上最悪の惨敗を喫し隆信自身と龍造寺四天王全員(成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直)が討取られた(沖田畷の戦い)。嫡子の龍造寺政家は、島津氏を降した豊臣秀吉に肥前佐賀城32万石を安堵されたが、秀吉に取り入った鍋島直茂に家を乗取られ、嫡子高房が抗議の自殺を遂げた直後に死去し龍造寺の嫡流は断絶した。