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2009年鳩山由紀夫代表・小沢一郎幹事長の民主党が総選挙で憲政史上最高の議席占有率64.2%を獲得し、戦後初めて本格的な政権交代を実現した(細川護煕・村山富市・羽田孜と続いた非自民党政権は、小沢一郎らの自民党造反で発生した亜流に過ぎない)。鳩山由紀夫は、吉田茂の従米政権と争い日ソ国交回復を果した鳩山一郎元首相の孫で、自主外交の遺志を受継いだ。民主党は選挙公約「マニフェスト」に「日米地位協定の改定を求め、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で米国と交渉する」「東アジア共同体の構築をめざし、アジア外交を強化する」と明記し、鳩山由紀夫首相と小沢一郎幹事長は組閣後直ちに従米脱却へ動いた。しかし、そもそも労組や日教組を基盤とする民主党に政権担当能力を期待するのが無理な話で、小沢一郎も内部抗争で剛腕を発揮できず、官僚組織を叩くばかりで活用術を心得ず立派なマニフェストを遂行する力は無かった。「沖縄普天間基地問題」で鳩山由紀夫首相は根回し無く「最低でも県外移設」と口を滑らせ、アメリカと野党はもちろん民主党内でも批判が噴出、県外移設断念を表明した直後に内閣支持率急落により僅か266日で辞任に追込まれた。2010年民主党代表選で菅直人が小沢一郎が担ぐ樽床伸二を破り首相に就任したが、もともと菅は市川房枝(婦人参政権運動の主導者)に連なる「闘士」であり、亀井静香が「色男、金も力もなかりけり」と揶揄したとおり、翌年起った東日本大震災および福島第一原子力発電所事故で無能を露呈し混乱を煽った挙句に政権を追われた。続く野田佳彦内閣に至って民主党政権は政権担当能力以前に松下政経塾の「政権ごっこ」に堕し小沢一郎グループ50人が離脱、2012年の総選挙で歴史的大敗を喫し自公連立の第二次安倍晋三内閣が発足した。