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小沢一郎は、田中角栄・金丸信の秘蔵子として少壮期から自民党中枢で活躍するが、経世会の主導権争いに敗れ離党、「二大政党制」を掲げて2度の政権交代を主導した政局のキーマンである。自民党時代は従米であったが民主党合流後に強硬な従米脱却路線へ転じ、先達同様「国策捜査」で政治生命を絶たれた。小沢一郎は、急死した父小沢佐重喜の地盤を継いで1969年に27歳の若さで衆議院議員初当選、田中角栄の庇護下で累進するが、経世会の造反劇では師匠・金丸信に従った。「金竹小」体制で竹下登内閣・経世会政権をリードし、海部俊樹内閣では若干47歳で幹事長就任、その後継総裁選では首相候補者の「小沢詣で」で豪腕を見せ付けた。海部首相の頭越しに「ミスター外圧」アマコスト駐日大使と提携し、1991年の湾岸戦争では「出し渋ったら日米関係は大変なことになる。いくらでも引受けてこい。責任は私が持つ」と橋本龍太郎蔵相を後押しして米国の要求どおり130億ドルもの献金を行い、自衛隊派遣の方策を模索して「国連平和協力法案」を提出、日米構造協議でも日本の公共投資を10年間430兆円で妥結させ『日本改造計画』も著作、「剛腕」従米派として米国から高く評価された。そんななか、小沢に経世会を継がせたい金丸信と、竹下登・小渕恵三・橋本龍太郎ら主流派の内紛が発生、東京佐川急便事件による金丸の衆議院議員辞職・小渕の経世会会長就任を機に小沢一郎は派閥を割り、内閣不信任決議で宮澤喜一内閣を打倒、羽田孜を担いで新生党を旗揚げした。世論が「新党ブーム」に沸くなか、自民党との連立を企図した日本新党の細川護煕を首相に担ぎ非自民連立による政権交代を実現させたが、寄集めの連立は主導権争いで瓦解、「自社さ連立」により政権を奪われた。新生党・日本新党合同で新進党を結成し政権奪還を目指すが、小沢一郎の独断専行を嫌って離反者が相次ぎ、最後は羽田孜や細川護煕とも対立、新進党は小沢の自由党など6党に分裂した。政権復帰を目指す小沢一郎は、自民党と復縁し小渕内閣で「自自公連立」を組むが、根強い「小沢アレルギー」に復党を阻まれて連立解消、2003年民主党に合流した。