日本史年表へ戻る
野茂英雄は大坂市港区出身、野球の名門校に落ちて無名の成城工業高校へ進み、甲子園出場を望めないなか剛速球を求め「トルネード投法」を磨いた。完全試合で注目された野茂英雄は新日鐵堺へ進み2年目の都市対抗野球でブレイク、同年ソウル五輪チームのエースに抜擢され銀メダルを獲得した。翌1989年のドラフト会議で野茂英雄は史上最多8球団から1位指名を受け近鉄に入団、いきなり投手四冠・新人王・沢村賞・シーズンMVPのタイトルを総舐めし、4年連続で最多勝・奪三振王の二冠を達成した。が、5年目に野茂英雄は右肩痛で戦線離脱し貧乏な近鉄は大幅減俸を強要、トルネード投法に難癖を付ける鈴木啓示監督への不満もあり野茂は退団に踏切ったが、他球団移籍不可の「任意引退」で報復された。「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督の下ではやれないと思った、それだけなんです」…1995年日本球界を追われた野茂英雄は、バッシングの嵐のなか団野村を頼りマイナー契約でドジャース入団、開幕直後にMLB昇格を果すと13勝・防御率2.54の好成績で奪三振王と新人王を獲得し「トルネード旋風」を巻起した。2年目も野茂英雄は初のノーヒットノーランに16勝・防御率3.19の大活躍、「NOMOマニア」は熱狂し日本のマスコミも掌返しで絶賛した。右肩痛で調子を落した野茂英雄はドジャースを解雇され複数球団を渡り歩いたが、2001年レッドソックスで2度目のノーヒットノーランを達成し奪三振王を獲得、ドジャースに復帰し2年連続16勝を挙げた。が、故障が再発した野茂英雄は又も解雇され長期リハビリ生活、2008年ロイヤルズで1000日ぶりの復帰マウンドを飾ったが、戦力外通告を受け現役続行を断念した。野茂英雄の生涯成績は日本で78勝・防御率3.15およびMLBで123勝・防御率4.24、捨身で海外移籍の絶壁を破り日本人メジャーリーガーのパイオニアとなった。日米通算201勝の野茂英雄は「名球会」に迎えられたが「何をするための組織なのか、ゴルフばかりでなく社会貢献を」と爆弾発言、33年も続いた金田正一の私物化は破られ名球界は社団法人へ改組された。