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井上礼之は、バブル崩壊後の「失われた20年」に「ダイキン工業」をエアコン世界一へ躍進させた至高のサラリーマン社長である。1924年山田晁は住友傘下に「大阪金属工業」創業、飛行機部品からフロン製造へシフトし、戦後株式上場を経て朝鮮特需の砲弾受注で蘇生、小型冷凍機用フロンで伸張し、1951年国産初のエアコンを開発し1963年ダイキン工業へ改称した。1957年同志社大学を出た井上礼之は京大農学部教授の父親のコネで大阪金属工業に就職、総務人事畑で累進し44歳で取締役となった。ダイキン工業は業務用エアコンの先駆となり土屋義夫から山田晁の長男山田稔へ承継されたが、1988年ココム違反事件とダンピング裁定で米国輸出差止めを喰い井上礼之は渦中の化学部門再建を託された。バブル崩壊で山田稔社長の多角化路線が挫折し、1994年円高と冷夏でダイキン工業は17年ぶりに赤字転落、派閥抗争に辟易した山田は井上礼之をゴボウ抜きで4代目社長に抜擢した。井上礼之は直ちに不採算部門を閉鎖しルームエアコン事業再建と中国進出に集中したが、雇用には一切手を付けず、不良社員を海外拠点で活用し人材育成に力を注いだ。井上礼之の「創造的破壊」で蘇生したダイキン工業は、中国に製販拠点を拡げ欧州各地に代理店開設、1999年ルームエアコン「うるるとさらら」のヒットで復活を遂げ、松下電器産業と包括提携を行った。井上礼之は国内外でM&Aを駆使し2006年「OYLインダストリーズ」(マレーシア)買収で売上高1兆円突破、OYL販売網を使い米国再進出を果した。2002年井上礼之は岡野幸義へ社長を譲り会長兼CEO就任、リーマンショックと粉飾決算事件で14期続いた連続増益は途絶えたが、2011年米国キャリア社を抜いてエアコン売上高世界一を達成し、2013年円安転換で業績を伸ばし株価は最高値を更新した。井上礼之の独裁下でダイキン工業の売上高は3倍に拡大し、海外販売比率15%の「田舎企業」は売上高・利益・従業員数とも海外比率7割の国際企業へ発展した。2014年79歳の井上礼之は元秘書の十河政則社長にCEOを譲ったが、取締役会長に留まり更なる海外進出へ野望を燃やす。