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「ロッキード事件」の謀略劇で田中角栄前首相は刑事被告人となり政権復帰を阻まれたが、金権選挙に強い田中派(木曜クラブ)は最大勢力を保持し「目白の闇将軍」は10余年も自民党政権に院政を敷いた。1976年ライバルの福田赳夫が三木武夫を引きずり下ろし政権に就いたが、1978年「2年後の首相禅譲密約(大福密約)」を破った福田首相に大平正芳(宏池会)が挑戦、田中角栄は盟友の大平を支持し番狂わせの大平内閣を成立させ「角影内閣」と称された。1980年総選挙の最中に大平正芳首相が心不全で急死すると田中角栄は大平派幹部の鈴木善幸への政権移譲に協力、1982年「日米同盟に軍事的意味はない」発言で鈴木内閣が倒れると弱小派閥の中曽根康弘を首相に擁立した。が、翌年の総選挙で与党自民党が大敗し中曽根康弘首相は「田中角栄氏の政治的影響を一切排除する」と声明、ロッキード事件の影響で最大派閥ながら首相を出せない田中派でも不満が高まった。1895年竹下登・金丸信らが造反し派閥内派閥「創政会」を結成、直後に脳梗塞で倒れた田中角栄は影響力を失い、1987年創政会改め「経世会」は正式に田中派から分離独立し政権を狙った。息子のように可愛がった小沢一郎まで金丸信に従い、大きなショックを受けた田中角栄は俄かに酒量を増し脳梗塞の病状を悪化させた。「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」という右翼街宣車の「ほめ殺し」で追詰められた竹下登は極道に仲裁を頼み田中角栄に謝罪(皇民党事件)、田中は目白邸に訪れた竹下を門前払いし憂さを晴らしたが、大勢を覆す余力は無く竹下内閣の発足を許した。1993年小沢一郎の策動で細川護熙内閣が成立し自民党支配の「55年体制」が終焉、直後に田中角栄は刑事被告人のまま75歳で病没したが、死の直前に訪中し「日中友好の井戸を掘った友人」と鄧小平らに歓待されたことと、長女の田中眞紀子が新潟3区の地盤を継ぎ衆議院議員に初当選したことがささやかな花道となった。