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日本の自動車生産が米国を抜いて世界一となった1890年の翌年、元役者のロナルド・レーガンが共和党から米大統領に就任した。軍産複合体が担ぐレーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)で「悪の帝国」と呼ぶソ連に過剰な軍拡戦争を仕掛け、同時に富裕層減税も行ったため瞬く間に財政赤字と累積債務が激増、さらに米国製造業の国際競争力低下と日本製品の躍進で巨額の貿易赤字も抱えアメリカは「双子の赤字」に陥った。日米貿易摩擦は以前にも度々起り、それでもアメリカは自由貿易の原則を堅持していたのだが、レーガン政権は「米国産業が輸入品に負けるのは、米国が悪いのではなく、相手国が悪いからだ・・・負けるとすれば相手国が市場閉鎖など不公正なことを行っているからにちがいない。相手国の不公正な制度は米国政府自身が特別チームでも作って大いに叩いたらよい」との傲慢なドグマに捕われ、貿易赤字の元凶とみた日本経済を敵視し破壊する暴挙に乗出した。1981年「自主規制」の押付けで象徴的な乗用車輸出を崩し、中曽根康弘首相を手懐けたレーガン政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ「プラザ合意」で急激な円高を強要、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強要し、スーパー301条で対日制裁を強化した。アジア製品の減価で日本の輸出産業は「円高不況」に陥ったが米国製品の輸出も伸悩み、逆に日本では積極的金融・財政政策で内需が喚起され「バブル景気」が発生、1989年にはアメリカの象徴ロックフェラーセンターやコロンビア映画を日本企業が買収する事態となった。業を煮やしたアメリカは保護貿易の枠さえ踏越え金融・不動産・流通などGHQ以来の「日本経済の再解体」を決意、FRBのBIS規制と日米構造協議が決定打となって1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。「防衛協力」で散々貢いだ挙句に経済破壊の内政干渉を黙って受入れた中曽根康弘首相は、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係と1806日の長期政権を築いたが、その代償は余りに大きく日本は「2度目の亡国」へ引込まれた。