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「任天堂骨牌」は工芸職人の山内房治郎が1889年京都に興した花札・トランプ屋で、1950年曾孫の山内溥が早稲田大学法学部卒業と同時に家業承継、国産初のプラスチック製トランプの量産化で業績を伸ばし1962年株式上場し翌年「任天堂」へ改称した。1973年オイルショックで任天堂は破綻に瀕し山内溥は脱トランプを掲げゲーム事業参入、「インベーダーゲーム」ブームに乗じ業務用を手掛けたがタイトー・ナムコ・コナミらに追付けず家庭用に的を絞った。山内溥は文系だが異能の横井軍平・宮本茂を得て任天堂は1980年発売の「ゲーム&ウオッチ」で躍進、同年米国へ進出し、1983年発売の「ファミコン」で家庭用ゲーム機のパイオニアとなった。ソフト重視の任天堂は自ら『ドンキーコング』『スーパーマリオ』を投入しつつ、ソフトハウスを下請化し『ドラクエ』『FF』で躍進、「ゲームボーイ」「スーパーファミコン」とハード開発も並走させ世界市場を独占した。が、1994年ソニー子会社のSCEが「PlayStation」を発売、AV技術で任天堂を凌駕しつつソフトハウスの自由度向上で切崩しに成功し二強時代を現出させた。とはいえ『ポケモン』の大ヒットなどでゲームは世界的産業へ発展し任天堂は後継機投入で着実に前進、山内溥から社長を継いだ岩田聡のもと2006年発売の「Wii」で最盛期を迎えトヨタ・三菱UFJに次ぐ時価総額10兆円に到達した。が、ゲームの主流は据置き型からオンライン・スマホへ移り、情報革新に乗遅れた任天堂はリーマン・ショックと円高に直撃され長い低迷期に入った。山内溥は2002年85歳で永眠したが、無借金経営のお陰で任天堂の基盤は揺るがない。「任天堂は運がよかっただけ」「俺の経営がうまかったから成功したと思うような経営者は、早晩墓穴を掘る」と語った山内溥は、「組長」だワンマンだと言われながらも社員に慕われ世襲を排除、一匹狼で経済団体に顔を出さず、勲章も狙わず「私の履歴書」を何度も蹴った賢者であった。山内溥と任天堂が興したゲーム産業は製造業に娯楽産業を融合した日本文化の結晶であり、コミック・映像・スマホなど全メディア産業の牽引役となった。