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レーガン米政権は、軍拡・富裕層減税・米国製造業の地盤沈下で「双子の赤字」を膨張させた責任を日本経済へ転嫁し懲罰政策に狂奔した。対する中曽根康弘政権は、輸出自主規制・制裁関税・輸入強制に加え「プラザ合意」で急激な円高まで唯々諾々と受入れ、「円高不況」打開のため安易な低金利政策と財政出動で「バブル経済」を引起したが、残念なことに蔵相は「経済音痴」の竹下登であった。それでも貿易赤字は減らず怒り心頭に達したアメリカは「原因は日本の国体にあり」と金融・不動産・流通など経済システムの破壊に踏込み、続く竹下登政権は「BIS規制」「スーパー301条」に続き露骨な内政干渉「日米構造協議」まで呑まされ、日銀のソフトランディング失敗でバブルは崩壊し日本は「失われた10年」に沈んだ。経済政策で「2度目の亡国」を招いた竹下登だが、1988年の国連軍縮会議で「日本が二度と軍事大国にならないこと」「非核三原則を国是として堅持すること」を宣言し、レーガン米政権の「防衛責任の増強」(防衛協力)要求を「軍事的な分野に人を出す考えはまったくない。PKOについても事前の調査に十分な注意をしたい」と拒否している。その僅か2週間後に朝日新聞が「リクルートの川崎市への誘致時の助役が関連株を取得、株式公開で利益1億円」と報じ「リクルート事件」が発生、政財界を揺るがす大疑獄事件に発展し、関与を疑われた竹下登首相の「金庫番」青木伊平が自殺し翌年内閣総辞職に追込まれた。竹下登内閣は自主外交に殉じた観もあるが、日本を「(米ソという)ビルの谷間のラーメン屋みたいなもの」と言って憚らない竹下登に師匠の佐藤栄作や田中角栄のように日米安保や「55年体制」の枠組みにまで踏込む意志は無く、アメリカが仕掛けた「日米経済戦争」に対抗する力量も気概も無かった。