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福田赳夫は自主路線・岸信介の後継者である。群馬の旧庄屋に生れた福田赳夫は東大法学部から高等文官試験主席合格で大蔵省へ進み、軍部と闘う高橋是清蔵相に感銘を受け、ロンドン勤務や汪兆銘政権の財政顧問も経験した。戦後も出世コースを歩んだ福田赳夫は主計局長に上ったが「昭和電工疑獄」を機に退官し(のち無罪)、1952年衆議院議員へ転じた。福田赳夫は大蔵省傍流の池田勇人ではなく同じエリート官僚の岸信介に仕え、岸内閣で自民党三役となり農林相で初入閣、池田勇人内閣では政調会長に登用されたが「党風刷新連盟」で経済偏重主義を批判して解任され5年も冷飯を食った。しかし続く佐藤栄作内閣は派閥横断人事を行い(人事の佐藤)、福田赳夫は蔵相・幹事長・外相を歴任、戦後初の国債発行で「昭和四十年不況」を克服し「昭和元禄」を守り、沖縄返還では米軍駐留費負担の密約で交渉妥結に寄与、佐藤首相は退陣にあたり福田を後継指名した。1972年、田中角栄が佐藤派を割り「角福戦争」が勃発、大平正芳・三木武夫・中曽根康弘と包囲網を組み自民党総裁戦で福田赳夫を破った。田中角栄首相の「日本列島改造論」はオイルショックで挫折し、蔵相を託された福田赳夫は「総需要抑制策」へ転換し「狂乱物価」を終息させた。続く三木武夫内閣で福田赳夫は副総理兼経済企画庁長官に就任したが、「2年後の政権禅譲の密約(大福密約)」で宏池会の大平正芳と提携し「三木おろし」に成功、1976年71歳にして悲願の政権に就いた。「さあ働こう内閣」を掲げた福田赳夫首相は、カーター米政権の「アジア離れ」の隙を埋める形で「全方位外交」を推進、「福田ドクトリン」でASEAN諸国との連携を強化し懸案の日中平和友好条約を成立させた。しかし1978年、密約を反故にされた大平正芳が自民党総裁選に挑み田中角栄の支持を得て番狂わせの勝利、長期政権を期待された福田赳夫は僅か2年での退陣となった。その後も「昭和の黄門」福田赳夫は「清和会」に影響力を保持し1990年85歳で引退するまで衆議院議員を務めた。福田赳夫の没後、清和会を継いだ森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三が政権を担い、長男の福田康夫も首相となった。