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田中角栄の政権復帰を阻止したいアメリカが「ロッキード事件」を仕組んだとする謀略説には説得力があり、首謀者の可能性が高いキッシンジャーは後年中曽根康弘に「ロッキード事件は間違いだった」とこぼしている。1972年に発足した田中角栄内閣は「日中国交正常化」でアメリカの「虎の尾」を踏んだともいわれるが、キッシンジャーはニクソン大統領の特使として軽井沢の別荘に田中首相を訪ね訪中延期を頼むも一蹴され、「汚い裏切り者どものなかで、よりによってジャップがケーキを横取りした」と憎悪を燃やしていた。1974年「金脈問題」で田中角栄内閣が退陣し、イメージ刷新を図る与党自民党は本命の福田赳夫・大平正芳へ繋ぐ暫定首相に「クリーン三木」を擁立した。三木武夫は、戦前は南カリフォルニア大学に留学し「日米同志会」で対米戦争反対の論陣を張り、戦後はマッカーサーから芦田均内閣の後継首相を打診された筋金入りの親米派であった。1976年「米SECからフィンドレー会計事務所に送るべき資料がチャーチ委員会に誤送される」という不審極まる経緯で「ロッキード事件」が発覚、関係者に事情聴取したチャーチ委員会は「ロッキード社が、日本、イタリア、トルコ、フランスなど世界各国の航空会社に自社の飛行機を売り込むため、各国政府関係者に巨額の賄賂をばらまいていた」と表明した。日本では「当初から」田中角栄前首相の関与が囁かれたが、米政府は「収賄者を発表すると複数の友好国で要人が失脚する」ため公表しない立場を明確にした。ところが三木武夫首相は、フォード大統領に直訴して関係資料を日本の検察に開示させ、アメリカでの嘱託尋問という超法規的措置を強行して無理やり証拠をかき集め、事件発覚から半年足らずで田中角栄と資金源の小佐野賢治を逮捕した。その直後、福田赳夫が「2年後の首相禅譲密約(大福密約)」で大平正芳と手を組んで「三木おろし」を成就させ首相に就任している。田中角栄は政権復帰を企図したが東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され断念、1983年懲役4年・追徴金5億円の有罪判決を受け、1993年田中の死により控訴審が上告棄却しロッキード事件は終わった。