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藤本弘と安孫子素雄は富山県出身で小学校の同級生、手塚治虫の『新寳島』に感激してコンビを組み四コマ漫画『天使の玉ちゃん』でデビュー、高校卒業後一時就職したが1954年揃って上京し「藤子不二雄」の名で売出した。聖地「トキワ荘」に入居した藤子不二雄は、手塚治虫を手伝いつつ石ノ森章太郎・つのだじろう・赤塚不二夫らと切磋琢磨で腕を磨き、1965年『オバケのQ太郎』のテレビアニメ化でブレイク、さらに『忍者ハットリくん』『怪物くん』『パーマン』とアニメ化ヒットを連発した。藤子不二雄のキャラ重視・一話完結の「生活ギャグ」路線は全国児童を虜にし、劇画や手塚治虫流ストーリー漫画を凌駕した。小学館児童誌に連載した『ドラえもん』は遅咲きだったが1973年アニメ化で人気爆発、藤子不二雄を国民的漫画家へ押上げ、1980年『ドラえもん のび太の恐竜』に始まる劇場アニメは今日へ続く定番シリーズとなった。『ドラえもん』は全世界でテレビ放映されグッズは中国製海賊版でも大人気、今も人気は衰えず「実写版」がトヨタのCMに採用されている。また「版権ビジネスを見据えたキャラ重視の作品構成→テレビアニメ化で宣伝→単行本と版権で大きく稼ぐ」という『ドラえもん』モデルは業界に浸透し漫画・アニメ産業発展の原動力となった。さて『ドラえもん』後の藤子不二雄は、『コロコロコミック』『藤子不二雄ランド』の看板作家を担い、1時間TV番組『藤子不二雄ワイド』で『プロゴルファー猿』『キテレツ大百科』など新作をアニメ化したが、マンネリ化を脱出せないまま1987年突然コンビ解消を発表した。安孫子素雄の姉を嫌う藤本弘が病臥を機に申出たといわれる。藤本弘と安孫子素雄は藤子不二雄の名義で著作権を共有し収入も折半してきたが、実は合作は『オバケのQ太郎』までであり、実状に従い『ドラえもん』『パーマン』は藤本・『忍者ハットリくん』『怪物くん』は安孫子の単独著作に振分けられた。その後も二人は活動を続けたが「藤子不二雄A」こと安孫子素雄の『笑ゥせぇるすまん』くらいしか業績は無く、1996年『ドラえもん』を産んだ「藤子・F・不二雄」こと藤本弘は62歳で永眠。