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岩手県水沢の貧農に生れた小沢佐重喜は、同郷の斎藤実や後藤新平に憧れ家出同然で上京、苦学して弁護士となり三木武吉に仕え政界進出、公職追放の空白に乗じて衆議院議員となり運輸相・郵政相・建設相等を歴任した。小沢佐重喜は、一関の大地主伊藤孫左衛門の四女モヨを妻に迎えたが、酒癖の悪さと金の無心を嫌われ早々に離縁された。しかし小沢佐重喜は、モヨの姉キワが嫁いだ渡辺喜三郎(胆沢の貧農出で鹿島組大番頭)に食込んで協力関係を築き、不正献金疑惑と共に小沢一郎へ受継いだ。小沢一郎は、小沢佐重喜が後妻みちに産ませた長男で、父が他所でもうけた姉二人がいる。小沢一郎も伊藤家から資金援助を受けたが一関が選挙区から外れると疎遠になり、如何か小沢佐重喜とモヨの婚姻の事実は伏せられている。さて、地元水沢で女中に養育された小沢一郎は、中学進学を機に両親が暮らす東京へ移住、東大進学を期待されたが2度失敗し慶應義塾大学経済学部へ進んだ。慶應を出た小沢一郎は司法試験に挑み2度目の受験に備えたが1968年父の死で急遽地盤を引継ぎ、母みちの導きで同じ貧農出身の田中角栄を頼り翌年の衆議院選挙で初当選、田中の秘蔵子として「特別待遇」で政界にデビューした。小沢みちは、小沢一郎の登院初日に付従い「マザコン議員」と嘲笑を買ったが、中央で多忙な息子に代わって水沢の地盤を守り後援組織「陸山会」を差配して選挙戦に勝続けた。小沢一郎は、赤坂の料亭「満ん賀ん」の若女将との結婚を望んだが叶わず、田中角栄の肝煎りで福田正(新潟の中堅ゼネコン福田組社長で「越山会」重鎮)の長女和子と結婚、田中は結婚式で「私はこの青年が可愛いのです。可愛くてならんのです」と名スピーチを打った。なお、田中角栄は和子の妹雅子を竹下登の弟竹下亘に縁付けている。小沢和子は、水沢で三児を育て上げ姑みちと共に選挙戦を戦い抜いたが、2011年「離婚しました」と書いた支援者宛書簡を「週刊文春」にスクープされた。70歳を過ぎた小沢一郎は「熟年離婚」を否定し衆議院議員を続けるが大邸宅に一人暮らし、男児3人は一流大学を出たが皆脱線したという。