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1912年道楽で家業を潰した吉本吉兵衛が妻せいの勧めで大阪天神橋の寄席を買取り翌年「吉本興行部」を開設(1932年「吉本興業」へ改称)、せいの弟林正之助は1917年18歳で総監督に就いて「大坂吉本」を担い、林弘高は1928年から「東京吉本」を率いた。吉本吉兵衛は早世したが吉本せい・林正之助の経営で吉本興業は躍進、「安来節」「吉本新喜劇」「しゃべくり漫才」で新味を加えつつ、巧みな芸人扱いと「強面」で寄席を次々買収し(「花月」に統一)桂春団治・三友派の吸収で上方演芸界を制覇、関東へ進出し「浅草花月劇場」を拠点に松竹と覇を競った。さらに吉本興業は、東宝と提携して映画に進出し読売球団創設に参画(戦後撤退)、大坂のシンボル「通天閣」を買収し(5年後焼亡)、東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸に47の直営劇場・寄席・映画館と芸人1300人を擁するまでに膨張した。しかし戦時統制下に芸能界は逼塞し、吉本興業は戦地慰問団「わらわし隊」を供し命脈を保ったが戦乱で演芸施設と専属芸人の大半を喪失、戦後は進駐軍専用キャバレーと映画館で再出発した。1948年吉本せいは社長を退き3年後に逝去、2代目林正之助の吉本興業は翌年株式を上場し、力道山を擁しプロレス・ブームを演出、山崎豊子の『花のれん』で認知度を高め、1959年「うめだ花月」で演芸を再開し「京都花月」「なんば花月」と手を拡げた。林正之助はテレビへ軸足を移し、1969年『ヤングおー!おー!』で笑福亭仁鶴、桂三枝、やすし・きよし、明石家さんま、島田紳助らが全国区となり「吉本新喜劇」も定番化、1980年『花王名人劇場』『THE MANZAI』『お笑いスター誕生!!』で漫才ブームを巻起した。「NSC」(ダウンタウンは一期生)など芸人養成に余念の無い吉本興業にネタ切れの死角は無く「吉本なしでは、番組が作れない」状態を維持、芸能界の覇者となった林正之助は社長のまま92歳で大往生を遂げた。が、林正之助の死後も「社員は虫けら、芸人は乞食」の悪弊は残り、吉本家・林家・経営陣の三つ巴の泥仕合のすえ2007年娘の林マサの暴走で闇勢力の介入が発覚、2009年吉本興業は非上場化された。