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佐藤栄作首相は組閣翌年の1965年「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国にとっての戦後が終わっていない」と声明し「沖縄返還」を内閣の使命に掲げ対米交渉に乗出した。岸信介首相(佐藤栄作の実兄)は1960年に成立させた「新安保条約」に10年の期限と以降は当事国一方の申出により破棄できる条項を盛込んでおり、アメリカは最初の更新期限である1970年を前に「日本の要求を拒めば、琉球列島と日本本土の双方で基地をまったく失ってしまうことになるかもしれない」と危惧していた。かくして1967年ジョンソン米政権の妥協により「数年以内の沖縄返還」合意が成立、佐藤栄作首相は「非核三原則」を表明し1969年代わったニクソン大統領に「1972年中の沖縄返還、核抜き・本土並み」の日本側方針を通知した。ベトナム戦争が終息に向かい沖縄基地の戦略的重要性が低下したこともあり、ニクソン米政権は大筋で要望を受入れ1972年5月15日に沖縄返還が達成されたが、非常時の核兵器持込みと日本の繊維輸出自主規制を認めた佐藤栄作首相の「密約」が日米両政府の決定的対立を招くこととなった。幸い「非常時」は起らず核兵器持込みの件は表面化しなかったが、繊維輸出自主規制の方は日本国内に漏れ「縄(沖縄)と糸(繊維)を交換した」との批判に晒された佐藤栄作首相が「密約はなかった」と履行を逃れたため大問題に発展した。ニクソン大統領は、外国製繊維の輸入規制を公約に南部諸州の票を獲得し共和党候補者レースに勝利した経緯があり、「繊維密約」は重要な政治課題であった。佐藤栄作首相の違約に激怒したニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は直ちに報復に乗出し、1971年同盟国日本を蚊帳の外に置いて電撃的に「ニクソン訪中」およびドル兌換停止(ドル切下げ)を宣言(ニクソン・ショック)、米国務省は「尖閣問題」の日本支持を修正し曖昧な態度をとるようになった。米政権に敵視された佐藤栄作内閣は存続を赦されず沖縄返還を花道に退陣、田中角栄内閣が発足したが「日中国交正常化」で前政権以上に激しくニクソン・キッシンジャー政権と衝突する。