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池田勇人首相は、欧米に訴求した「自由主義陣営の三本柱」の実効を示すべくアジアに日本独自の役割を打立てようと試み、特に岸信介政権による戦争賠償妥結で緊密化しつつあったインドネシアには官民挙げて注力した。日商岩井がスカルノ大統領に斡旋した銀座のホステス「デヴィ夫人」(根本七保子)はその象徴で、「開発独裁」スカルノ・ファミリーと大蔵省のパイプ役を果し池田勇人首相と家族ぐるみの付合いをしたという。反植民地闘争と第三世界ナショナリズムの旗手を自認するスカルノは、マレーシア建国などイギリス植民地再編の動きをインドネシア包囲の陰謀と非難し「マレーシア紛争」を引起した。英米が手を焼くなか池田勇人首相が仲裁に乗出したが、スカルノは受入れないばかりか1965年「北京=ジャカルタ枢軸」を宣言して中国共産党と手を組み国連を脱退した。が、同年9月に起ったクーデター未遂事件(9月30日事件)でスカルノ大統領の求心力は失墜、1967年政権を奪取した右派軍人のスハルトは共産主義勢力を一掃しインドネシアは西側陣営に復帰した。スカルノは「国父」のままジャカルタで軟禁状態に置かれ3年後に逝去、遺されたデヴィ夫人らは各々亡命し独裁者スカルノの一家は一代で滅んだ。池田勇人は日本同様にアジアの政治闘争を経済建設に昇華させEECのようなアジア経済統合を構想したがスカルノの反逆で挫折し、渦中の1964年首相を佐藤栄作に譲り翌年病没した。