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浜松の鍛冶屋に生れた本田宗一郎は(マツダ創業者の松田重次郎も鍛冶屋の出)、高等小学校卒で東京の自動車修理工場へ丁稚奉公に入り22歳で暖簾分けを許され「アート商会浜松支店」を開設、これを従業員に譲り「東海精機重工業」を設立したが上手く行かず1945年三河地震による工場倒壊を機に豊田自動織機に会社を売却した。翌1946年、浜松で浪人していた本田宗一郎は妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と着想し原動機付自転車「バタバタ」を開発し大ヒット、1948年「本田技研工業株式会社」を設立し経営担当に藤沢武夫を迎えた。1952年発売の小型バイク「カブ」で本田技研工業は躍進、東京への本社移転と株式公開を果し、1955年二輪車生産台数日本一を達成、1958年発売の「スーパーカブC100」で世界の小型バイク市場を席巻した。「町工場のおやじ」のままの本田宗一郎は過少資本の欠陥を抱えたまま「本田技術研究所」で技術開発に邁進、二輪車世界一の座を掴むと1963年軽トラックで四輪車生産を開始し、1972年「シビック」で自家用車に参入し低公害エンジン「CVCC」を搭載、F1レースで「技術のホンダ」を世界に示した。本田宗一郎は海外展開にも積極的で、業界に先駆けて欧米に販社を網羅しベルギーの二輪車工場・米国オハイオ州の四輪車工場など海外生産も推進した。しかし1973年のオイルショックで本田技研工業の自転車操業は行詰り、本田宗一郎は銀行に全持株を差出す覚悟で支援を引出し経営破綻を免れたが、「空冷」への固執など技術的信任の低下もあって辞任に追込まれた。道連れで副社長を退いた藤沢武夫は「名参謀」の呼声が高いが、実際はブローカー上りの野心家に過ぎず銀行の信用は低かったともいわれ、本田宗一郎は一番弟子の河島喜好を後継社長に選んだ。1983年本田宗一郎は取締役も退き1991年84歳で永眠したが(終身最高顧問)、創業者の遺命どおり本田技研工業の社長はエンジニアの久米是志・川本信彦・吉野浩行・福井威夫・伊東孝紳・八郷隆弘へと受継がれ、外資の買収攻勢を退けたホンダはトヨタと共に「ものづくり日本」の象徴であり続けている。