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「マンガの神様」手塚治虫(本名手塚治)の生家は常陸府中藩の藩医の嫡流で、曽祖父の手塚良仙は緒方洪庵の適塾に学んだ蘭方医、祖父の手塚太郎は関西法曹界の重鎮、父の手塚粲はセミプロ写真家の趣味人であった。手塚治虫は父の手回し映写機でチャップリン喜劇やディズニーアニメに親しみ、近所の宝塚歌劇団の虜になり、『のらくろ』『フクちゃん』『ミッキーマウス』の模写で漫画を描き始めた。名門北野高校に入学した手塚治虫は軍事教練に傷つき大阪大空襲に遭難しつつ軍医養成の大坂医専(阪大医学部とは別)へ進んだが、戦後執筆を再開し1946年四コマ漫画『マァチャンの日記帳』でプロデビュー、翌年長編漫画『新寳島』で「赤本」ブームを引起した。『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『火の鳥』とヒットを連発する手塚治虫は、1953年医師免許を取得するも医業を捨て東京南長崎の「トキワ荘」で4時間睡眠の執筆生活に没頭、25歳で関西長者番付の画家部門首位に輝いた。漫画ブームが到来しマガジン・サンデー・ジャンプと週刊誌の創刊が相次いだが、『カムイ伝』で劇画に主流を奪われ石ノ森章太郎ら後輩が台頭するなか、飽きられ焦る手塚治虫は神経衰弱に陥った。が、手塚治虫は初志のアニメ制作に望みを繋ぎ1961年有金叩いて「虫プロダクション」設立、使い回しでセル画数を切詰める「リミテッドアニメ」で予算・工数不足を打開し、1963年日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』・1965年カラーアニメ『ジャングル大帝』を発表し世界に誇る日本アニメの幕を開いた。しかし採算度外視のアニメ経営は破綻を来し、月刊誌『COM』を創刊するが漫画人気も回復せず、労組の造反劇を経て虫プロは倒産し手塚治虫は破産に瀕した。が、異色路線の『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』のヒットで蘇生し、旧作の単行本集『手塚治虫漫画全集』が人気を博し印税収入で財政も持直した。晩年の手塚治虫は、『火の鳥2772』で念願のアニメ映画監督を務め『陽だまりの樹』(主人公は手塚良仙)『アドルフに告ぐ』など青年漫画に挑戦したが、1989年700作品・原稿15万枚の超人的業績を遺し60歳で永眠した。