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高原慶一朗は愛媛県の片田舎から外国製品を駆逐し日本の生理用品・紙オムツ市場を制覇した「ユニ・チャーム」創業者である。古い経営体質とバブル投資で一時停滞したが、2代目を継いだ長男高原豪久のもと国際企業へ脱皮しデフレ不況下で急成長を遂げた。高原慶一朗は愛媛県川之江市(現四国中央市)出身、大阪市立大学を卒業し家業「国光製紙」の専務に就いたが1962年29歳で地元に「大成化工」を設立した。建材加工で起業した高原慶一朗だが、2年後に始めた生理用品が本業となり「ユニ・チャーム」へ改称、1976年株式上場を果した。1981年ユニ・チャームは画期的な「立体型パンツオムツ」を開発しベビー市場に参入、高原慶一朗はテレビCMに巨費を投じ国内シェア9割を誇ったP&Gの牙城を切崩し、高齢者用紙オムツやペット用品へ手を拡げた。しかしバブル期に入ると高原慶一朗は「ゴールドタワー」(バブルの塔)建設や事業多角化で集中力を失いユニ・チャームは成長鈍化、国内市場が飽和するなか本格的な海外進出に遅れをとり、創業以来39年続いた増収増益の断絶を機に2001年高原豪久に社長を譲り会長に退いた。創業会長と取巻きが取締役を占めるなか、高原豪久はマスコミも活用して人心掌握を図り、バブルの後始末を進めつつ「1人当たりGDP1000ドルで生理用品が売れ始め、3000ドルでベビー用紙おむつが成長期に入る」と確信し中国を軸にアジア進出を強行した。エース級人材の投入で現地を「自社流」に染める戦術も功を奏し、圧倒的な商品力を有するユニ・チャームはアジア市場を席巻しインドネシア・タイ・ミャンマーではトップシェアを獲得した。高原豪久のもとユニ・チャームは海外売上高を6倍に伸ばし13%だった海外販売比率は6割を突破、国際企業らしく東京三田へ本社を移した。少子化で停滞するベビー用品の穴を介護用品やペット事業で埋めユニ・チャームは成長軌道を堅持、円安転換で2015年株価は最高値を更新し、中南米やアフリカを睨み拠点開設とM&Aを推進している。2代目に恵まれた高原慶一朗は日本の大富豪の上位にランクされ「取締役ファウンダー」として快適な余生を送る。