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GHQのやりたい放題を受入れ続けた吉田茂首相であったが、あまりに急激な米政府の「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針への転換についていけず、親分のマッカーサーが解任された後も米政府からの再軍備要請に難色を示し続けた。一方、日本国内では、講和独立後初の総選挙で鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占め、鳩山派と吉田派の勢力は逆転していた。鳩山一郎は、自主路線の代表的政治家であり、1946年には組閣を目前にしながらGHQに睨まれて公職追放に遭い首相の座を吉田茂に譲り渡したが、追放解除後に政界復帰し、米軍占領からの真の脱却を図るため重光葵と共に積極的な再軍備を主張していた。重光葵は、鳩山一郎と同じく自主路線故にA級戦犯として有罪判決を受け4年7ヶ月も獄に繋がれたが、戦犯釈放により政界復帰を果した吉田茂の宿敵であった。こうした状況のもと、日本の再軍備を優先するアメリカは長年忠勤に励んだ吉田茂を「軍備をサボタージュする古狐」とあっさり切捨て、鳩山一郎首相・重光葵外相の内閣発足を容認した。憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)を掲げて発足した鳩山一郎内閣は、吉田茂内閣が言われるがままに差し出してきた「防衛分担金」の削減交渉を成功させ、ダレス米国務長官に一蹴されはしたが在日米軍撤退・防衛分担金廃止提案を行い、アメリカが日ソ分断のために埋め込んだ北方領土問題を乗越えて悲願の「日ソ国交回復」を達成、これを花道に退陣した。その僅か1ヵ月後、自主外交の旗手としてアメリカに対抗し続けた重光葵は謎の突然死を遂げた。