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「自主外交」の旗手にして吉田茂の宿敵・重光葵は、鳩山一郎内閣で10年ぶりに外相に返咲くと再びアメリカの理不尽に立向かった。1955年4月「防衛分担金を178億円(国家予算の約2%)削減し、その分を防衛予算増額に充当する」との日米合意を成功させた重光葵外相は、同年7月アリソン駐日大使に「米国地上軍の6年以内撤退、その後6年以内の米国海空軍撤退、在日米軍支援のための防衛分担金の廃止」を提案、翌月には岸信介民主党幹事長と河野一郎農商を伴って渡米しダレス国務長官との直談判に挑んだ。「対等国」として安保改定を求める重光葵をダレスは一蹴、岸信介の回想によると「ダレスは、重光君、偉そうなことを言うけれど、日本にそんな力があるのかと一言のもとにはねつけたというのが実情」であった。また河野一郎が著書に曰く「ダレスの言った趣旨はこうだ。日本側は安保条約を改定しろというけれど、日本の共同防衛というのは、今の憲法ではできないではないか。日本は海外派兵できないから、共同防衛の責任は日本が負えないではないか。・・・ダレスさんからやっつけられると、重光さんは立上がって、『どこの国の憲法にはじめから侵略的な海外派兵を肯定している憲法がありますか。アメリカの憲法と日本の憲法と比べてみて、この点についてどこがちがうか』(と主張した)。こうした緊張感のなかで重光さんの態度は堂々としている。やはり戦前の外交官は見識をもっている。」・・・結局、重光葵外相の気魄も老練なダレス国務長官には通じなかったが、条件付ながら「現行の安全保障条約をより相互性の強い条約に置きかえる」との日米合意を引出し、後の岸信介内閣による安保改定交渉への足掛りを築くことはできた。翌1956年12月鳩山一郎内閣は「日ソ国交回復」を花道に退陣、国際連合加盟を果し総会演説で有終の美を飾った重光葵は笑顔で「もう思い残すことはない」と語り外相を退いた。その僅か1ヵ月後、69歳にして健康体の重光葵は湯河原の別荘で好物のスキ焼きと餅を食し床に就いたが、間もなく腹痛を訴えて苦しみ始めそのまま息を引取ったという。重光葵の原因不明の突然死により、日本の自主外交は大きく後退した。