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イラン「国民戦線」のモサデク首相は第二次大戦後も石油資源の収奪を続ける英国資本との対決を決意、1951年パーレビ国王を抑えて石油国有化を宣言し「アングロ・イラニアン石油」(BPの前身)を接収した。激怒した英国は中東に艦隊を派遣しイランへ石油買付に来るタンカーを撃沈すると国際社会を恫喝、石油市場から締出されたイランは忽ち窮乏した。緊迫する情勢のなか、石油メジャーの専横に憤る出光興産の出光佐三は、弟の出光計助専務(のち2代目社長)を極秘派遣してモサデク政府に根回しし、1953年虎の子の自社タンカー「日章丸二世」をイランへ派遣した。「日章丸二世」は一般乗組員に危険なイラン行きを告げず極秘裏に神戸港を出航、アバダン港で石油を満載し、帰路は英国海軍の監視が厳重なマラッカ海峡を避けて水深が浅く危険なジャワ海を辿り川崎港に凱旋した。アングロ・イラニアン石油は積荷の所有権を主張して出光興産に返還を求め東京地裁に提訴し日本政府に圧力をかけたが、出光佐三は「一出光のためという、ちっぽけな目的のために50余命の乗組員の命と日章丸を危険にさらしたのではない。国際カルテルの支配を跳ね返し、消費者に安い石油を提供するためだ」と啖呵を切り、英国資本の石油独占を崩したい米国の黙認と国内世論の後押しで行政処分は見送られ裁判でも出光興産の勝訴が確定した。「日章丸事件」は敗戦国日本の一企業が戦後世界を牛耳る石油メジャーに一矢報いた快挙であり、出光佐三と日章丸は世界に名を馳せた。近年『海賊とよばれた男』(百田尚樹著)の題材となり再び脚光を浴びている。なお日章丸事件の直後、追詰められたモサデク政権は石油の販路を求めソ連に接近、イラン共産化の危機を前に米国は英国支持に回りCIAによるクーデターで国民戦線を一掃し傀儡のパーレビ国王を復権させた(モサデクは軟禁中に不審死)。しかし1960年「OPEC」発足で石油メジャーの影響力は激減し、1979年ホメイニーが「イスラム・イラン革命」でパーレビ王朝を滅ぼしイランは米英の宿敵化、米国は直ちに隣国イラクにサダム・フセイン政権を樹立し翌年「イラン・イラク戦争」を引起した。