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1923年「シャープペンシル」で急成長を続ける早川徳次を関東大震災が直撃、自身は川へ逃れ橋の台石にしがみついて死を免れたが妻子と工場を失った。従業員70人を抱える早川徳次は落胆する暇も無く事業再開に奔走したが、関東地区販売代理店の日本文具製造から契約解消と保証金の即時返還を請求され万事休す、早川兄弟商会の全事業および個人名義のシャープペンシル関連特許まで巻上げられた。早川徳次は日本文具製造のある大阪へ移り6ヶ月間の技術移転指導義務を履行した後、1924年大坂阿倍野の現シャープ本社所在地に早川金属工業研究所を設立、万年筆の付属部品や新型クリップの製造から再起を図り、間もなく欧米で実用化されつつあったラジオに着目し製品化に挑んだ。金属細工職人あがりの早川徳次と従業員にとって電器は未知の分野だったが、有金を叩いて希少な鉱石ラジオを購入し分解して忠実に部品を模倣再現、早くも翌1925年4月に国産初の鉱石ラジオ受信機の製作に成功した。昨今の中韓メーカー同様、日本製造業もパクリから始まった。間もなくラジオ放送が開始され、外国製品の半額以下で売出した「シャープ・ラジオ」は爆発的大ヒット、遠距離受信が可能な交流式真空管ラジオも開発し、満州事変後のラジオ普及に乗り業績は急拡大、株式会社へ改組し早川電機工業へ社名を改めた。第二次大戦後、平和産業の早川電機工業は財閥解体禍を免れ早川徳次も公職追放を回避、戦後の大混乱でラジオメーカーは80社から18社へ淘汰されドッジ・ライン恐慌で早川も経営危機に陥ったが、朝鮮戦争の特需で蘇生しラジオ専業から総合家電へ方針転換、株式上場を果し、テレビ放送開始に先駆け米国RCA社から技術導入し国産第1号テレビ(白黒)を発売した。事業復活を見届けた早川徳次は1959年子飼の佐伯旭専務に経営を託し、1970年シャープへの社名変更に伴い社長を佐伯に譲り会長へ退いた。