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民政局の翻意で平野力三農省の罷免を強いられ社会党左派内の支持を失った片山哲内閣が退陣し、連立与党の民主党党首である芦田均が後継首相に就任した。反共・軍事優先の参謀第2部(G2)と日本の社会主義的民主化を進める民政局(GS)によるGHQの内部対立は、東西冷戦の緊迫化に伴い日毎に先鋭化しつつあったが、ソ連の「ベルリン封鎖」を機に米国内で反共闘争路線が優勢となり民政局の凋落が明らかになった。G2のウィロビー部長はマッカーサーを抱込んで追討ちを掛け、配下の東京地検特捜部を動員し「昭和電工疑獄」を摘発、民政局員の多くを贈賄容疑にかけ失脚させた。G2の意を受けた読売新聞や朝日新聞は過剰な弾劾報道で昭和電工疑獄を煽り立て、G2が民政局寄りと敵視する芦田均内閣も巻添えを喰い、西尾末広社会党書記長の逮捕で総辞職に追込まれた。外交官出身の芦田均は、外務省同期の重光葵と同様に自主外交を模索し吉田茂の極端な従米路線を否定、外務省の後輩に脱米国依存の研究を示唆し、片山哲内閣の外相として米軍の「有事駐留」を提唱したことでGHQに警戒されていた。後継首相には野党第一党・民主自由党党首の吉田茂が就くのが「憲政の常道」であったが、G2子飼いの吉田を嫌うケーディス民政局次長は最後の抵抗を試み、民主自由党副総裁の山崎猛を擁立し民政局の傀儡政権に仕立てようと企てた(山崎猛首班工作)。が、ウィロビー部長のG2は猛反撃でケーディスの陰謀を葬り第二次吉田茂内閣を樹立、ケーディスはワシントンで占領政策不変更を訴えたが相手にされず、万策尽きて翌1949年5月3日の憲法記念日に民政局次長を辞任した(ケーディスは日本国憲法の作成者)。さて昭和電工疑獄の顛末だが、芦田均元首相のほか大蔵省主計局長の福田赳夫ら多くの官僚と政治家が逮捕され14年半も費やした裁判の末に1962年最高裁判決が下されたが、なんと実刑判決ゼロ・執行猶予付き懲役刑21名・芦田も福田も無罪というお粗末な結果となり、G2=東京地検特捜部の「国策捜査」が明白となった。