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京都の零細陶器工に生れた村田昭は、肺結核で高校を中退したが無事成人して家業を継ぎ「競合しない独自製品」を求め特殊磁器製作に挑戦、1944年三菱電機の下請工場「村田製作所」を設立し電波兵器レーダー用チタンコンデンサの製造を開始した。終戦で「軍需工場」は閉鎖されたが、村田昭は電熱器等の製作で糊口を凌ぎ、翌年チタンコンデンサ製造を再開しラジオブームに乗った。田中哲郎京大助教授と邂逅した村田昭は「専門家の知恵を借り」て「世紀の材料」チタン酸バリウムの応用に成功しラジオ市場を席巻、ドッジ・ライン恐慌で関西のラジオメーカーは松下電器産業とシャープ以外全滅したが技術優位の村田製作所は生延び、朝鮮戦争のラジオ特需を満喫した。村田昭は産学連携を強化し通産省の補助金を得てチタン酸バリウムの応用研究を加速、1952年村田製作所は防衛庁実施の米軍規格試験で唯一の認定部品メーカーとなり、自衛隊受注を独占し市場地位を確立した。朝鮮特需の反動不況で村田製作所の業績は低迷し大規模労働争議も発生したが、間もなく高度経済成長が始まりラジオに白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」が加わり業容は急拡大、村田昭は工場増設に追われつつ長岡京市の「村田技術研究所」に巨費を投じて開発体制を増強し、世界初のセラミック半導体・圧電セラミックスなど新分野への布石を打った。さらに村田昭は、米国を手始めに世界各地に販売拠点を展開し1965年には輸出が売上高の3分の1に到達、1985年プラザ合意で円高に突入するとセットメーカーに従い海外現地生産シフトを加速した。村田製作所は1963年に株式上場したが、初めて海外工場を開いたシンガポールでも日本企業初の株式上場を果している。セラミックコンデンサで世界市場を制覇した村田昭は、1991年長男の村田泰隆に社長を譲り4年後に取締役も退任、2006年84歳で永眠した。3代目社長には次男の村田恒夫が就き2015年末も健在である。部品メーカーの村田製作所は知名度は低いが完成品の売行きに左右されない強みがあり、デフレ不況下でも好業績を維持しソニーや東芝に劣らない株式時価総額と国際競争力を誇る。