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終戦後、近衛文麿は新憲法準備に生残りを賭けた。幣原喜重郎内閣の副総理格の地位にあった近衛文麿は、GHQに赴いてマッカーサーと会談した際、「憲法改正を要する」との示唆を受けて自らこれにあたることを決意し、木戸幸一から昭和天皇に働きかけて宮内省御用掛に任じてもらい、京大の佐々木惣一元教授に頼んで憲法改正案の作成に着手した。こうした近衛文麿のスタンドプレーに幣原喜重郎首相と松本烝治国務大臣は反発し、近衛に中止を求めると共に、松本烝治を委員長として「憲法問題調査会(通称松本委員会)」を立上げた。近衛文麿は尚も独自の新憲法準備工作を継続しようとしたが、中国・オランダ・ソ連などから近衛を戦犯指定するよう迫られたGHQに梯子を外されてお払い箱となった。これで新憲法準備は松本委員会に一本化されたが、東大系法学権威を集めた老人組織は瑣末な文言修正に終始する有様で抜本的な改革案を出せず、結局GHQからの「押付け憲法」を受入れざるを得ない事態に追込まれた。さて、マッカーサーにすがるも見捨てられ東京裁判の審理に際しGHQから巣鴨刑務所への出頭命令を受けた近衛文麿は、出頭予定日の前日に荻窪の別荘「荻外荘」で青酸カリによる服毒自殺を遂げた。山下奉文らの死刑判決をみて極刑を免れないと覚悟した近衛文麿は、「勝者の裁判」で裁かれる屈辱に耐えられず自決に及んだとされる。自作の『戦陣訓』で「生きて虜囚の辱めを受けず」と国民に強要した東條英機は軍人のくせにピストル自殺に失敗、近衛文麿との対象もあり完全に面目を失った。なお、近衛文麿の死後しばらくの間、友人の吉田茂が「荻外荘」を借用し自邸として使った。