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当初アメリカは直接軍政を予定していたが、準備のための十分な時間がなく、また最小限の兵力とコストで日本の占領統治を行うべく間接統治へ切替えた。GHQ指令を日本政府が法令化する流れを基本としたが、緊急の場合は法令化を省略しGHQ指令を「ポツダム勅令」の名で直接公布する方式が採られた。中央政府廃止で国土を4分割され英米仏ソの各国軍司令官に直接統治されたドイツよりマシかも知れないが、間接統治とはいえ事実上の主権者はアメリカであり、日本を「保護国」とする認識は講和独立後も続き今日の米国政府でも公然と語られている。ヘソ(朕より上)と呼ばれたダグラス・マッカーサーは「私は日本国民に対して、事実上無制限の権力をもっていた。歴史上いかなる植民地総督も征服者も、私が日本国民に対してもったほどの権力をもったことはなかった・・・軍事占領というものは、どうしても一方はドレイ(奴隷)になり、他方はその主人の役を演じ始めるものだ」などと吹聴し、トルーマン米大統領は「日本は軍人をボスとする封建組織のなかの奴隷国であり、一般人にすれば主人が占領軍に切替わっただけで新政権のもとに生計が保たれれば別にたいしたことではない」と痛いところを衝いている。GHQ内部では、反共主義者のチャールズ・ウィロビー部長率いる諜報・保安・検閲担当の参謀第2部(G2)と、社会主義にかぶれ極端な民主化政策を推進するホイットニー局長・ケーディス次長の民政局(GS)の対立が次第に深刻化した。G2は反共の吉田茂を支持し、GSは財閥解体・日本国憲法策定・労働組合育成など実験的政策を進めつつ社会党など革新陣営を支持し片山哲・芦田均内閣を成立させた。が、米ソ冷戦の激化に伴い日本統治でも反共路線が優勢となり、1948年以降GSは急速に力を失いGHQの主導権争いはG2の完勝で終結、吉田茂の長期政権が重光葵・鳩山一郎らの自主路線を封殺した。1952年サンフランシスコ講和条約発効に伴いGHQは廃止され、日本を去ったマッカーサーはトルーマン大統領との政争に敗れ失脚、長すぎた吉田茂政権も漸く終焉を迎えたが、高度経済成長により従米路線が戦後日本の「保守本流」に定着した。