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敗戦必至の戦局が徒に長引くなか、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣が東條英機内閣を打倒し、無能な小磯國昭内閣に代わり昭和天皇の信任篤い鈴木貫太郎の「終戦内閣」が成立、ナチス・ドイツの降伏、ソ連の日ソ中立条約廃棄、沖縄戦敗北、空襲で国中が焼け野原と化すに及び漸く陸軍は「本土決戦」を断念した。鈴木貫太郎内閣と陸軍は中立条約締結国のソ連を仲介とする日米和平交渉に最後の望みを繋いだが、ヤルタ会談で米英に8月9日の対日参戦を約束済みのスターリンが仲介などするはずはなかった。かくして鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾を決めたが降伏条件で紛糾、「天皇制護持」のみで妥結を図る東郷茂徳外相らに対し、阿南惟幾陸相・梅津美治郎参謀総長・豊田副武軍令部総長は「占領は小兵力且つ短期間」「武装解除および戦犯の処置は日本人の手で行う」との条件追加を声高に主張した。議事が膠着するなか、鈴木貫太郎首相は強引に御前会議を開いて昭和天皇の「聖断」を仰ぎ、天皇は慣例を破って自らの意見を述べ天皇制護持だけを条件とする東郷外相案に賛意を示した。その8月10日のうちに外務省は中立国を介し天皇制護持のみを条件にポツダム宣言を受諾する旨を通知、連合国から承認の回答を得た。陸軍幕僚らは連合国の回答をあげつらって悪あがきしクーデターを企てたが(宮城事件)、辛くもテロを逃れた鈴木首相は全閣僚・重臣を召集、席上昭和天皇が連合国回答に基づく降伏を明言し、正式の手続きを踏んで8月14日に日本の敗戦が決定した。いわゆる「無条件降伏」ではなかったが、日本が固執した天皇制護持さえアメリカ(GHQ)の恣意へ委ねられ、あれだけ血気盛んだった軍人らも忽ち意気阻喪した。最悪なのは「無敵関東軍」で、日本人居留民の安全を確保する前に早々に武装解除に応じ我先に内地へ帰還、「降伏文書調印(9月2日)までは交戦状態」というスターリンの屁理屈でソ連軍が満州に殺到し無防備の日本人に襲い掛かった。暴虐なソ連軍は日本の民間人18万人を虐殺し、国際法を無視して57万人以上の「戦争捕虜」を強制労働で酷使し10万人以上を死なせた(シベリア抑留)。