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戦局が悪化しても強硬論を曲げない東條英機首相(陸相と参謀総長を兼務)に対し、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣は結束して倒閣工作に動いた。東條独裁下の陸軍は頑強に抵抗したが、東條英機首相が自ら「防衛は安泰」と豪語したサイパン島が呆気なく陥落し敗戦が決定的になると、重臣会議は意を決して粘る東條を引きずり降ろした。「戦争遂行内閣」の後継首相は陸軍から出すこととなったが「陸軍大将を任官年次の古い順に見ていって適当な人物を捜す」という投遣りな選考の結果、宇垣一成の穏健派に連なる小磯國昭に組閣の大命が降された。陸相には強硬派の杉山元が就任したが、小磯國昭の能力不足を補うため元首相で海軍良識派の米内光政が海相に復帰し「小磯・米内連立内閣」といわれた。小磯國昭は、陸士(12期)を出て日露戦争に従軍、陸大の席次は55人中33番と凡庸だったが、長州閥の系譜を引く宇垣一成に属し派閥争いが盛んな陸軍にあって人柄と人付合いの良さで台頭、要職の軍務局長・陸軍次官・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官を歴任した。小磯國昭大将は予備役に退いたが、調整能力を買われて平沼騏一郎・米内光政内閣に拓務相で入閣し、朝鮮総督を経て首相へ上り詰めた。小磯國昭に特筆すべき業績は無いが、朝鮮総督として同化政策(皇民化政策)を推進したことや、陸軍航空本部員として欧州視察を経験し空軍力の充実を持論としたことなどが知られている。さて、実は戦争終結を期待された小磯國昭内閣は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍を懐柔すべく「一撃を加えた上で有利に対米講和を進める」建前を示し徴兵年齢拡大(根こそぎ動員)を断行したが相手にされず、本土爆撃が本格化するなか愚にも付かない「本土決戦完遂基本要綱」を容認した。米内光政海相・重光葵外相や近衛文麿・木戸幸一ら重臣にも見放された小磯國昭首相が何も出来ないまま、レイテ沖海戦で海軍が壊滅し東京大空襲・硫黄島陥落・沖縄侵攻・日ソ中立条約廃棄通告と戦局は見る間に悪化し、戦艦大和撃沈の日に小磯内閣は退陣した。終戦後、小磯國昭は東京裁判で終身刑判決を受け1950年に巣鴨プリズンで獄死した。