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ビルマ方面軍第15軍司令官の牟田口廉也が、戦局悪化で守備に専念すべき情勢を無視して、全く必要のないインド侵攻作戦を企て現地幕僚全員の反対を押切り強行、イギリス軍の逆襲に逢い無益な戦いで6万4千人もの戦死者(拉孟騰越戦の2万9千人を含む)と4万2千人の戦傷病者を出した(インパール作戦)。上官のビルマ方面軍司令官は河辺正三であり、盧溝橋事件を起した牟田口・河辺コンビが再びやらかした日本戦史上最悪の暴挙であったが、インド独立運動家で「大東亜会議」の盟友チャンドラ・ボース(中村屋カレーの発案者とも)に泣き付かれた東條英機首相が「子分」の牟田口廉也に無謀な突撃を命じたのが真相とされる。自己顕示欲の塊で好きなものは「一に勲章、二に現地女、三に新聞記者」といわれた牟田口廉也は、反対する第15軍の参謀長と三師団長を更迭してインパール作戦を発動、自分は「ビルマの軽井沢」で優雅な生活を送りつつ前線に無理を強要し撤退も許さなかった。間もなく東條英機は内閣を倒され予備役編入、牟田口廉也も解任され予備役編入となったが、東京裁判での起訴を免れ、インパール作戦の戦略的妥当性を認めた英字紙の切抜きを振りかざしつつ1966年まで78歳の長寿を保った。後任の第15軍司令官に就いた木村兵太郎は、東京裁判で絞首刑に処されている。なお当時のビルマ方面軍には、対米開戦の首謀者ながら強硬過ぎて東條英機首相と対立し陸軍中央を追出された田中新一が第18師団長の任にあったが、さすがに牟田口廉也の無謀な作戦には反対したとされる。