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1943年既に日本軍の敗色は濃厚であったが「チャーチルに似て」絶望知らずの重光葵が外相に就任、ルーズベルト米大統領・チャーチル英首相の「大西洋憲章」が解放平等を謳いながらインドなどの植民地支配を改めない欺瞞を質し、「欧米植民地支配からの東洋の解放・建設・発展」という「わが国の戦争目的の正当性を世界に示す」ため「大東亜共栄圏」諸国の連帯を提唱した。重光葵外相は「大東亜憲章」「大東亜同盟」の樹立と裁判所・警察軍・中央銀行など国際機構の創設まで構想したが、青木一男大東亜相・賀屋興宣蔵相・海軍らの反対で「宣言」に矮小化された。とはいえ東條英機首相は重光葵外相に賛同し、自らアジア諸国の元首を歴訪して参加を呼掛け、大本営政府連絡会議をまとめ「共存共栄の秩序を建設す、相互に自主独立を尊重す、相互にその伝統を尊重す、互恵のもと緊密に連携す、人種的差別を撤廃す」という「大東亜共同宣言」案を決定した。かくして東條英機政府は、日本軍の侵攻で欧米列強の植民地支配から解放され独立を果したアジア諸国の首脳を東京に招いて「大東亜会議」を開催し大東亜共同宣言を採択した。出席者は中華民国(南京政府)行政院院長の汪兆銘、満州国国務総理の張景恵、フィリピン国大統領のホセ・ラウレル、自由インド仮政府主席のチャンドラ・ボース、ビルマ国行政府長官のバー・モウ、タイ国首相代理のワンワイ・タヤコーン親王で、日本軍の占領下だが未独立のイギリス領マラヤおよび蘭領東インドは参加せず、仏ヴィシー政権支配下の仏領インドシナは招待されなかった。日本の敗戦で重光葵の大東亜共栄圏構想は画餅に帰しGHQにより「大東亜戦争」の呼称も抹殺されたが、バー・モウは「日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない」「東京で開かれた大東亜会議、この偉大な会議は、十二年後、アジア・アフリカ諸国のバンドン会議で再現された精神であった」と語り、インドのラダ・クリシュナン大統領は「インド・ベトナム・カンボジア・インドネシアなど旧植民地であったアジア諸国はみな日本人の払った大きな犠牲によって独立できた」と総括している。