日本史年表へ戻る
日本軍がマレー侵攻と真珠湾攻撃を敢行、英米蘭中が日本に宣戦布告、これを受けて独伊が米に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。1941年において、アメリカのGNPと鉄鋼生産量はいずれも日本の12倍、持久戦・総力戦になれば全く勝つ見込みのない戦争であった。山本五十六連合艦隊司令長官が自ら立案した日本海軍による真珠湾攻撃は、結果的には鮮やかな戦果を挙げたが、非常にリスクの高い冒険的作戦であった。持久戦では勝ち目がないと確信する山本五十六は、日本近海で敵艦隊を待ち伏せし大鑑巨砲で決戦に挑むという軍令部の作戦の非を悟り、「桶狭間とひよどり越と川中島とをあわせ行うの已むを得ざる羽目に、追込まれる次第に御座候」と覚悟を定め乾坤一擲の大博打に挑んだのである。真珠湾攻撃が成功すれば早期講和に持ち込み、もし惨敗しても戦争は続行不能、いずれにせよ戦争を早期に終わらせるための攻撃作戦であった。山本五十六の悲壮な決意を知らない海軍中枢の幕僚らは、自分らの作戦に固執して真珠湾攻撃の阻止を図ったが、山本らが良い加減な永野修身海相を押し切って実現させた。なお、宣戦布告文書の手交が真珠湾攻撃開始に1時間遅れたため、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンで現在に至るまでアメリカの反日政策に利用されることとなったが、これは日本大使館員の怠慢が原因であり、日頃の野村吉三郎大使への反抗的態度が思いもよらぬ大問題に発展したというお粗末極まりない話であった。