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「日米諒解案」が挫折した後も野村吉三郎駐米大使はワシントンに留まりハル米国務長官と妥協点を探る交渉を続けたが時既に遅し、開戦準備を終えたアメリカは突如交渉を打切り「日本軍が仏印と中国から撤退しない限り経済封鎖を解除しない」とする最後通牒(ハル・ノート)を東條英機政府に突きつけた。要するに満州事変以前への原状回復を迫る、当時の外交常識に反する超強硬姿勢であり、アメリカも日本が呑むとは考えておらず日本を挑発して開戦に踏切らせようとの意図があった。完全に手詰まりとなった東條英機内閣は、若槻禮次郞や米内光政ら良識派重臣の最後の諫止を黙殺し、第四回御前会議において対米開戦を決定した。なお、当時アメリカは日本の外交暗号「パープル」の解読に成功しており、日本サイドの情報は筒抜けであった。近衛文麿・東條英機内閣が対米開戦に踏切った背景にはナチス・ドイツ軍への過剰な期待があったが、確かにソ連の敗北は必至と思える戦況があった。東部戦線を片付けたドイツは西部戦線に兵力を集中しイギリスを撃破するはずであり、欧州に足場を失えばアメリカも戦意喪失し早期講和に応じるだろう・・・こうした希望的観測を陸海軍を含む日本全体が共有していた。が、東條英機内閣が第四回御前会議で対米開戦を決定した数日後、ドイツ軍はスターリンが陣取るモスクワまで30kmに迫りながら悪天候とソ連軍の猛反撃により後退を開始、ドイツ優位で進んできた独ソ戦の趨勢は一変し、甘い他力本願戦略には対米開戦を前に狂いが生じた。