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第二回御前会議の結果を受けて、近衛文麿首相は野村吉三郎(海軍出身)駐米大使を通じて日米交渉を再開しようとしたが、時既に遅く、アメリカから相手にされなかった。近衛首相は閣議で対米妥協策を諮ったが、東條英機陸相から中国からの陸軍撤兵は「心臓停止」に等しく絶対に承認できない「人間、清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だ」と突上げられ、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相は東條陸相に与し永野修身軍令部総長は「よくわからないので首相に一任」と責任を回避する情けない有様で、近衛首相は陸海軍の不一致を理由に土壇場で政権を放り出してしまった。後任首相は昭和天皇と木戸幸一内大臣の協議により決められたが、対米協調派の皇族軍人で軍部にも抑えが効く東久邇宮稔彦王が有力視されるなか、よりによって最大の主戦論者である東條英機を選んでしまった。愚かな決断をした木戸幸一の真意は不明だが、強硬派ながら天皇への忠節が厚い東條に任せれば天皇の意を汲んで開戦回避に尽力するだろうとの思惑があったとみられ、天皇は木戸の奏上に「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。首相となった東條英機は、陸相と参謀総長を兼務し、対米開戦を諌めた網本浅吉陸軍少将を追放するなどして反対勢力を一掃した。組閣直後は天皇の意に適うべく対米開戦回避に努めたが、戦争の決意を固めたアメリカを相手に中国・仏印からの完全撤退の他に打開策は無く、強硬な陸軍統制派を基盤とする東條首相には開戦以外の選択肢は残されていなかった。