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1941年、日独伊三国同盟にソ連を加え米英に対抗しようと夢想する松岡洋右外相は、ベルリンからの帰路モスクワへ立寄りソ連のスターリンを訪問した。独ソ関係が不穏で会談拒否も考えられたが、スターリンは快く松岡洋右を引見し席上電撃的に日ソ中立条約を受諾、当日中に調印まで済ませしてしまった。スターリンは諜報によりナチス・ドイツのソ連侵攻を掴んでいたとみられ、日独との両面戦争を何としても回避したい状況で松岡洋右の提案は渡りに船だった。モスクワ滞在中の松岡洋右に対しチャーチル英首相は英米の生産力の強大さを示しドイツのソ連侵攻を警告したうえで「イギリスの敗北が決していないのにドイツと組むのは時期尚早ではないか」と諭す書簡を送ったが、なんと松岡は「八紘一宇の大目的実現のためにやっているのだから構うな」と近代国家の外相とは思えない暴論で反駁した。「大手柄」を挙げた松岡洋右は万歳三唱をもって日本国民に迎えられ、マスコミが「北の脅威が薄れた。さあ南進だ!」と煽立てたため日本は南進論一色に染まった。が、チャーチルの警告どおり時を置かず独ソ戦が勃発、1945年日本の敗戦が決定的になるとソ連は有効期間5年の日ソ中立条約を一方的に破棄し関東軍が去った満州を蹂躙、松岡洋右はスターリンやヒトラーに愚弄されただけとなり「トリックスター」の面目躍如たる顛末を迎えた。