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岡敬純軍務局長・石川信吾第二課長が及川古志郎海相の承認を得て、軍政(予算獲りと政権コントロール)に長けた陸軍に対抗すべく「海軍国防政策委員会」を設置、4委員を高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二の対米強硬派の大佐が占め次席の幹事役にも対米強硬派の三中佐が就任した。「不規弾」(暴走男)といわれた石川信吾の重用には反発が多く、山本五十六は南部仏印進駐を図る石川を「早く首にしろ」と迫るも及川古志郎海相に黙殺され乾坤一擲の真珠湾攻撃の構想に着手したとされる。海軍の国防政策や戦争指導は海軍国防政策委員会の独壇場となり、伏見宮博恭王元帥を後ろ盾に岡敬純・石川信吾が中心となって南部仏印進駐を強行、予期せぬ対日石油禁輸制裁に岡は弱気に傾いたが石川は動揺を隠すように先鋭化し対米開戦へ邁進した。帝国海軍痛恨の「大鑑巨砲主義」の主導者もまた石川信吾で、山本五十六らの航空兵力優先論を退け海軍の全精力を戦艦「大和」「武蔵」の建造に集中、膨大な燃料を食うだけの「大和ホテル」は役立たずのまま「特攻作戦」に投入され沖縄に辿り着くこともできず撃沈された。海軍の元凶というべき岡敬純と石川信吾は共に山口県出身で中学も同じ(東京目黒の攻玉社)、同郷の松岡洋右や末次信正(海軍艦隊派の首領)とは昵懇の間柄で、吉田善吾海相を突上げ三国同盟締結に貢献した。対米開戦後は東條英機ら陸軍が完全に主導権を握り、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相や永野修身軍令部総長は引きずられるだけ、海軍国防政策委員会の陰も薄くなった。終戦後、開戦時の軍務局長岡敬純は東京裁判で終身禁固刑に処されたが、「この戦争は俺が始めたんだ」と自慢した石川信吾は戦犯指定を免れた。