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田中新一は最強硬路線を牽引した「イケイケ陸軍人」で対米開戦のキーマン、永田鉄山(陸士16期)の後継者を自認し陸士同期(25期)の武藤章と共に「統制派」を指揮した。関東軍参謀から陸軍省軍務局軍事課長に就いた田中新一は、武藤章参謀本部作戦課長の「華北分離工作」を支持し石原莞爾(21期)ら不拡大派を退け日中戦争を拡大させた。日中戦争泥沼化に連れ武藤章軍務局長は日中講和・対米英妥協へ転じたが、陸軍では田中新一参謀本部第1部長らの強硬論が支配的となり、東條英機陸相を動かし松岡洋右外相と提携して近衛文麿内閣を日独伊三国同盟・関東軍特種演習・南部仏印進駐へと誘導、永田鉄山以来の宿志「国家総動員体制」も実現させた。陸軍の主導権は永田鉄山・石原莞爾・武藤章・田中新一へと変遷したが「議論は過激へ流れる」典型例であった。陸軍は一枚岩で亡国の対米開戦へ暴走したわけではなく、生産力が懸絶するアメリカに勝てないことは自明であり、東條英機さえ土壇場まで回避策を模索した。南部仏印進駐で開戦を決意したアメリカは石油禁輸に踏切り、日本は到底呑めない中国・満州からの完全撤退を突き付けられたが、それまでは交渉の余地は残されていた。そうしたなか田中新一は、武藤章らの慎重論を抑えて南進政策を強行し早々に対米英妥協を放棄、ナチス・ドイツとの同盟で対決姿勢を鮮明にし、戦争ありきの強硬策を推し進め東條英機内閣に対米開戦を決断させた。さらに田中新一は正気の沙汰とは思えない米ソ二正面作戦を画策、独ソ戦が始まると松岡洋右と共にソ連挟撃論を唱え関東軍に大兵力を集中させたが(関東軍特種演習)、間もなく南進一色となり対ソ開戦は回避された。太平洋戦争の帰趨が決しても「負けを認めない」田中新一は強硬姿勢を貫き、ガダルカナル島撤退に猛反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條英機首相を面罵、前線のビルマ方面軍に飛ばされインパール作戦に関与したが、終戦直前に予備役編入となり無事に生還した。東京裁判では、天皇の温存を図るGHQが統帥権(参謀本部)関連の訴因を外したことが幸いし、田中新一は起訴を免れ、1976年まで83歳の長寿を保った。