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一撃を加えれば蒋介石政権は屈服し日中戦争は早期に片付くという武藤章の「中国一激論」は挫折し日中戦争は泥沼化、武藤は自ら起草した「華北分離工作」を捨てて日中講和へ転じトラウトマン工作などに加担したが、陸軍以上に強硬な近衛文麿首相・広田弘毅外相は和解案を一蹴し悪乗りの「近衛声明」で自ら日中講和への方途を塞ぎ、陸軍では田中新一・東條英機らの強硬論が優勢となった。田中新一は自他共に認める永田鉄山の後継者で、軍需資源を求めて日中戦争拡大を図ると同時に、対ソ連開戦を目論み事実上の開戦準備(関東軍特種演習)を断行した最強硬派であった。日中戦争で中国権益を侵された英米は蒋介石支援を強化(援蒋ルート)、反米英の田中新一は資源調達の代替手段を準備すべく東南アジア進出を強行し(南進政策)、武藤章は中ソ二正面作戦を回避すべく南進には同意したが国力が懸絶するアメリカとの戦争には反対で妥協は可能との考えであった。対する田中新一は、南進政策を採る以上イギリス権益との衝突は自明で大英帝国の国力低下は対ドイツ戦に不利に働く、となればイギリスを欧州安全保障の要に置くアメリカの軍事介入は避けられないと考え、援蒋ルートの遮断と対米開戦準備、さらに欧州でソ連・イギリスと対峙するナチス・ドイツとの同盟を強硬に主張した。結局、第二次近衛文麿内閣は田中新一・松岡洋右らの強硬策を採用し日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行するがアメリカの石油輸出全面禁止を招き、進退窮まった近衛が政権を投出すと統制派最年長の東條英機が首相に就き石油禁輸が致命的な海軍の同意を得て対米開戦を決定した。