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阿部信行は、金沢から上京して陸士・陸大へ進み、長州閥「宇垣一成の寵児」として軍務局長・陸軍次官・陸相(宇垣陸相の臨時代理)と累進したが、実戦経験も金鵄勲章も無い唯一の大将は「戦わぬ将軍」「処世の将軍」と揶揄された。長州閥打倒で結束した永田鉄山ら一夕会・統制派が実権を掌握すると、阿部信行は「上りポスト」の軍事参議官に回され、二・二六事件に伴い予備役編入、頼みの宇垣一成内閣も石原莞爾らの妨害で流産した。が、平沼騏一郎内閣が独ソ不可侵条約で倒れると、統制派にも皇道派にも属さない阿部信行に組閣の大命が降った。阿部信行は、陸軍穏健派の宇垣一成の後継者であると同時に、西園寺公望に代わり天皇側近の中心になりつつあった木戸幸一の縁戚で、海軍良識派の井上成美の義兄でもあった。阿部信行内閣の組閣に際し、強硬派の板垣征四郎が陸相を降ろされ昭和天皇の意を受けた穏健派の畑俊六が就任、三国同盟反対を譲らない米内光政海相も降板した。後任海相は同じ良識派の山本五十六が有力だったが、テロに遭う恐れがあるので海に出そうということで連合艦隊司令長官に転出、良識派に連なる吉田善吾が海相に就いた。さて、発足直後に第二次世界大戦の勃発に遭遇した阿部信行内閣は、複雑怪奇な日独伊三国同盟を棚上げし日中戦争処理に全力を挙げるも和平工作に失敗、流通促進のための米価引上げが物価高騰を招き、あまりの不人気に陸軍も倒閣に動き僅か4ヶ月余で総辞職に追込まれた。阿部信行は終戦直後、原田熊雄に「今日のように、まるで二つの国、陸軍という国とそれ以外の国とがあるようなことでは、到底政治がうまくいくわけはない。自分も陸軍出身で前々から気になってはいたがこれほど深刻とは思っていなかった。認識不足を恥じざるをえない」と弁明している。退陣後の阿部信行は、宇垣一成から東條英機に乗換え組閣を支援、翼賛政治会会長や貴族院議員の名誉職を与えられ、米内光政・宇垣らの東條内閣打倒の動きには加担しなかった。最後の朝鮮総督として終戦を迎えた阿部信行は、早々に米軍の護送で内地に戻り、A級戦犯容疑で逮捕されたが開廷直前に釈放された。経緯は今も謎である。