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天津のイギリス租界内で、日本人に便宜を図った関税委員が反日中国人に殺害される事件が起った(天津事件)。日本は犯人の引渡しを求めたが、イギリス領事館が拒否したため、北支那方面軍の山下奉文参謀長と武藤章参謀副長らの強硬派が乗出し、国際紛争に発展した。日本国内では反英的な論調が盛んとなり、東京朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)をはじめとする大新聞各社がイギリスに対して強硬な共同声明を出すに至った。イギリスは日本との決定的対立を避けるために抵抗を止め、クレーギー駐日英大使が東京で有田八郎外相と会談、日本の要求を全面的に受入れて和解協定を結んだ。これで一件落着と思われた矢先に、突如としてアメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきた。ルーズベルト政権のハル国務長官は、近衛文麿首相の「東亜新秩序声明」や「イギリスは日本に降参した」とか「徹底的外交の勝利」といった日本の論調に露骨な不快感を示し、中国、イギリスその他を支援して日独伊に敵対行動をとることを表明した。日本は主要な軍需物資である鉄・石油・機械類を輸入に依存しており、特にアメリカからの輸入が各品目とも輸入額の約4分の3を占めていた。第一次近衛文麿内閣の悪乗りが招いた対米関係の悪化は日本にとって致命傷であり、万難を排してでも妥協点を探るべきであったが、逆に陸海軍は資源の代替供給源を求め南進政策を推進し第三次近衛内閣のもと南部仏印進駐を断行する。